とまらない考え。

きょう、ある人に顔が「動物っぽいね」

といわれて、

 

 

「あぁ、私動物ですよ。人間です」

と返したのだけれども、

 

「その哲学っぽいのなんじゃ~」と

 

いわれてしまいました。

 

 

そのことを今思い出して、

「哲学」ってそういえば、

すべて「文字」か「文章」だなぁ、とふと浮かんだのです。

 

そのとき、

ふと 夏目漱石(私の中で賢くて勉学に忠実なひと)

がうかび、

 

 

今の人間って「本よむこと」が

勉強だと思ってない?と考えました。

 

「本を読む」ということは

自分の中にある知識欲求欲を満たしたり、

いいものであれば一時的にも慢性的にも

「刺激」を得ることができるもの、と

私は考えています。

 

 

だけど、「本を読んで勉強する」と

いうことを考えたとき、

 

わたしたち(特になにかを創造する人たち)

って、

本から

人の言葉を借りてるだけなのではないのか、

ただ単にそこに影響された

イミテーションだけのものを生んでないか、

 

という考えが浮かんだのです。

 

 

「創造するひと」ならば

むしろ言葉そのもの自体を見なおして、

そこから「創造」してしまってもいいんじゃないか

 

目から入った「文字」という刺激は

文字で還すのではなく、

もっとべつの原点に帰って考えることができれば

本から受ける影響はただの「影響」となり、

あたらしい自分のものを

創造していけるんじゃないか、と思ったのです。

 

「勉強しろ勉強しろ」ということばは

ありきたりですが、

「勉強」ということばは実は

日本語らしからぬ簡素なワードで、

 

昔から夏目漱石とかがそうであったように

何歳になっても人間は

「勉強をする」ということが

あたりまえになってきています。

 

ということは、

もしかして人間の脳みその

"そのもののスペック"って

猿とかとまったく同じなのではないか

 

だから人間は本を読んだりして、

脳みそにスペック以上の

「付加価値」を求めて

いろんなことを知ろうとする。

 

たとえば本を読んで賢くなった人間が

パソコンを作り、また本を出し、

そうして生まれた便利な「情報環境」によって

人間は「脳みそが進化した」気分になる

そんな賢くなった「気分」の人間が

また造語を並べたてた本やアイデアを売り、

「情報環境」の一員をふやしていく。

 

 

「勉強する」っていう動詞は実は

こどもたちに教える際には

「知ろうとする」や「経験する」という風に

置き換えた方がよいのではないか・・・

 

Ex)「勉強しなさい」

=「知ろうとしなさい」

 「経験してみなさい」

 

 

 

とおもった朝方です。

 

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2014.11.10

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